海 〜 私はここにいます
浜辺で、この陽射しの下で、「春よ、来い」は似合わない気もしたけれど、吹いていたら「私はここにいます」のところで大海原を感じた。
東に開けている海は好きだ。東から海と空の光がやってくるととても新鮮に感じる。
(宮崎の海と空をどこかで思い出しているのだと思う)
音楽は「そこにいる人」が奏でるものだった…
公園で小さなこどもさんを目の前にして演奏すると、こどもさんは最初たいてい「どうしたらいいかわからない」感じのとてもとまどった反応をなさる。たぶん、なにが起きているのかわからないのではと思う。
ひょっとしたらだが、今のこどもさんには、音楽はテレビとか何かの機械から聞こえてくるものであって、人が奏でるものだと思ったことがない、ということがあるのかもしれない。そういうことがあるとしたら、それはこどもさんに限った話ではもはやないのかもしれない。
ただ、少なくとも私よりもう少し上の世代の方々にとっては、音楽はもう少し属人的というか、それを発する誰かと密に結びついていたのではと思う。そしてさらに上の世代の方々にとっては、音楽は「そこにいる人」と密に結びついていたはず。
(世代というかなんというか)
(「そこにいる人」に関心を向けるか、また「音楽」に関心を向けるか、という点は措いておいて)
音楽を取り戻す
[音楽の]全体像がどこかへ行ってしまっていて(やっぱり何かが壊れたままだ)、録音して聴いてみるとアーティキュレーションがまるで「はまって」いない。しかたないのでテンポを落としてあえて無表情に吹き通すところからやり直してみる。
そして楽器を持たずに心の中で演奏。
そしてふだんは練習していない"Send in the clowns"を思いの丈を込めて夜の公園で。
それでようやく何かを少し取り戻した気が。
プラスティックのリコーダー
今日たまたま居合わせた野外ライブで演奏なさっていたデュオの方は、こどもの頃に使っていたとおっしゃるプラスティックのリコーダーを修繕して使っておられた。
拍手か足音か
「愛燦燦」を吹いていて、遠くから拍手のような足音のようなよくわからない音が聞こえて、きっと足音だろうと思って何もせず、ひょっとしたらまた失礼をしてしまったかもしれない。もう暗くて遠くはまったく見えなかった。もし私の勘違いだったらおわびしたい。
しかし気に病みようがない。